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秘湯『鶴の湯』で出会った白色湯と囲炉裏を囲む食体験——乳頭温泉郷(秋田県仙北市)

秘湯『鶴の湯』で出会った白色湯と囲炉裏を囲む食体験——乳頭温泉郷(秋田県仙北市)

·1762 文字·4 分

温泉観を根底から書き換えた「初めて」の衝撃
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今回の乳頭温泉郷(にゅうとうおんせんきょう)・鶴の湯(つるのゆ)への旅は、私にとって「初めて」が凝縮された、まさにエポックメイキングな出来事であった。

これまで私が経験してきた温泉といえば、関東近郊にある、直前でも予約が取れるようなリーズナブルな宿が中心だった。しかし、ここ鶴の湯は違う。何ヶ月も前からカレンダーを睨み、予約を確保したその瞬間から旅は始まっていた。新幹線を降り、田沢湖駅から路線バスに揺られること一時間。宿の専用送迎バスではなく、公共交通機関のバスに身を任せ、徐々に標高を上げていく時間は、日常の喧騒を一つずつ脱ぎ捨てていく儀式のようでもあった。

目の前に現れたのは、一面の雪景色に沈む茅葺き屋根の集落。それは、これまで知っていた「観光地の旅館」とは一線を画す、圧倒的な非現実感を纏った「湯治場」の姿であった。

生きている湯に抱かれる——足元自噴と白濁の機能美
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鶴の湯の代名詞とも言える混浴大露天風呂。私にとって人生初となる有色の温泉、そして混浴への挑戦であったが、そこで感じたのは意外にも「深い安心感」であった。

白濁したお湯は、一度肩まで浸かってしまえば身体を完全に隠してくれる天然のベールとなる。私は男性だが、この「白濁」という特性と、宿側の細やかな設計には舌を巻いた。女性脱衣所からは、男性客の目に触れることなく、お湯に浸かったまま湯船の中を移動して混浴エリアへ入れる動線が確保されているのだ。

「無色透明の湯では、混浴は厳しいだろう」——そう直感するほど、この白濁湯と動線の工夫は、老若男女が等しく名湯を享受するための、伝統が生んだ機能美であった。

さらに、足元の砂利の間からぷくぷくと直接湧き出している「足元自噴」の感覚。それは、どこかから引いてきた湯に入るのではなく、地球の熱が生まれる場所に自分自身が溶け込んでいくような体験だ。これまでの温泉体験が塗り替えられていく高揚感とともに、雪景色を眺めながらいつまでも浸かっていたくなるような、不思議な一体感に包まれた。

囲炉裏の火が照らす、日本古来の贅沢
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夕食

宿泊した「本陣」での滞在は、さらにその非日常を深めてくれた。夕食は、囲炉裏のある食事処で。椅子ではなく、床板の上に直接座り、上げ膳を食すという日本古来のスタイルである。

汁物

並ぶのは、山菜や岩魚など、この山間でしか手に入らない素朴ながら力強い食材の数々。また、囲炉裏の火で煮込まれた汁物。派手な懐石料理とは正反対の、しかしその土地の恵みをダイレクトに味わう食事は、何物にも代えがたい贅沢であった。朝食も同様に、山間で採れた山菜や岩魚と、汁物と米の組み合わせで、古き良き日本の食卓を味わうことが出来た。

朝食

夜、静寂に包まれた茅葺き屋根の下で過ごしていると、利便性を追求した都会の宿では決して得られない「不便さという名の豊かさ」が身に沁みる。テレビも何もない空間で、ただ湯の流れる音と雪の気配を感じる。それは、数ヶ月待ってでも訪れる価値のある、魂の休息であった。

妙乃湯のモダンな彩りと、秘境への道程
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滞在中、日帰りで訪れた「妙乃湯」もまた印象深い。鶴の湯の野生的な魅力とは対照的に、あちらはモダンで洗練された設えが美しく、渓流を望む露天風呂は開放感に満ちていた。乳頭温泉郷という一つのコミュニティの中に、これほどまでに異なる個性が共存していることに驚かされるとともに、この温泉郷の奥深さを改めて実感した。

この夢のような場所に辿り着くための、一時間のバス移動。雪深き山中へと進むにつれ、「ついに秘境の核心部へ行くんだ」という覚悟と高揚感が、車窓の雪景色とともに胸に迫った。自分の足で時間をかけて辿り着いたからこそ、あの茅葺きの集落が目に飛び込んできた時の感動は、一生忘れられないものとなった。

総括:旅の基準を変えた「鶴の湯」の一夜
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足元自噴、白濁の混浴、雪景色の本陣。 今回の旅は、私がこれまで知っていた「温泉」という概念を根底から書き換えてしまった。数ヶ月前から準備をし、長い時間をかけて移動し、自然の厳しさと温かさを同時に享受する。

不便さを楽しむ余裕と、歴史を守る人々の工夫。鶴の湯で過ごした時間は、これからの私の旅の基準となり、いつまでも心の中で温かく湧き出し続けるだろう。

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