石川県加賀市にある山代温泉。北陸の温泉地を巡る旅路で、ここを素通りすることは温泉ファンとして許されなかった。開湯1,300年の歴史を持ち、共同浴場を中心に街が形成される「湯の曲輪(ゆのがわ)」という古き良き景観を残すこの地は、まさに聖地の一つと言える。
今回の目的は、性格の異なる二つの公衆浴場をハシゴすること。そして、温泉マニアだからこそ味わえる「不便さの贅沢」を堪能することだった。
合理的な「ハシゴ」の流儀 #
山代温泉の象徴的な入浴施設には、現代的な設備の「総湯」と、明治時代の姿を復元した「古総湯」がある。温泉好きなら誰もが両方を訪れたいと思うはずだ。そんな心理を見越してか、現地では二館の共通券が割引で販売されている。私も迷わず、セットで購入した。
私の選んだ順序は、まず「総湯」に入り、その後に「古総湯」へ向かうというものだ。これには明確な理由がある。後述するが、古総湯には洗い場がない。まずは「総湯」でしっかりと身体を洗い、清めてから、お目当ての古総湯で湯と向き合う。これがマニアなりの、最も合理的で粋なハシゴの流儀である。
温泉マニアを魅了する「不便さ」という様式美 #
身体を洗い終え、次に向かったのが「古総湯」だ。この施設には、現代の入浴施設には当たり前にある「シャワー」や「洗い場」が存在しない。ただ湯に浸かるためだけの、極めてストイックな空間だ。
一般の観光客からすれば、髪も身体も洗えない環境は単なる「不便」でしかないだろう。しかし、全国の歴史ある温泉地を巡ってきたマニアの視点は少し違う。
古くから続く名湯や、人里離れた露天風呂には、もともとシャワーなどないのが当たり前だった。こうした「昔ながらの不便さ」をあえて残し、当時の入浴作法を現代に伝えている姿勢にこそ、抗いがたい魅力を感じるのだ。不便であることは、その温泉が歴史を正しく守っている証左でもある。
ステンドグラスが映し出す、幻想の刻 #
古総湯の扉を開けると、そこには日常とは切り離された静謐な空間が広がっていた。壁面を彩る九谷焼のタイル、そして何より目を引くのが、窓にはめ込まれた色鮮やかなステンドグラスだ。
浴室内に差し込む外光が、ステンドグラスを通して幻想的な色を帯び、湯気の中に溶け込んでいく。その光がゆらゆらと湯面に反射する様子を眺めながら、ただじっと湯に身を委ねる。余計な動作を必要としないこの空間で、光と湯が織りなす光景に没入する時間は、何物にも代えがたい贅沢だった。
湯上がりの誘惑——温泉たまご二個の幸福 #
古今二つの湯を堪能し、すっかり温まりきった身体で外へ出る。心地よい脱力感の中で出会ったのが、温泉情緒を締めくくる「温泉たまご」だ。
山代の源泉で仕込まれたその卵は、見るからに滋味深く、小腹が空いていたことも手伝って、気づけば一度に二個も食してしまっていた。
殻を割り、付属のタレをかけて口に運ぶ。このタレがまた絶品で、濃厚な黄身の旨味を最大限に引き立ててくれる。ツルリとした喉越しとともに、身体の隅々にまで栄養が染み渡っていくような感覚。温泉たまご二個という、ささやかながらも確かな幸福感が、この旅の満足度を完璧なものにしてくれた。
訪問を終えて #
山代温泉での時間は、単なる「入浴」以上の体験だった。 便利な「総湯」で日常の充足を得て、不便を楽しむ「古総湯」で非日常の美学に触れる。このコントラストこそが、山代温泉の真髄ではないだろうか。
効率や利便性だけを求めるなら、現代的なスーパー銭湯でも事足りるかもしれない。しかし、その土地の歴史を肌で感じ、不便さの中に宿る情緒を慈しむ。そんな温泉ファンにしか分からない喜びが、ここ山代には確実に存在していた。