鹿児島空港から、100年前の日本へ #
人吉を訪れたのは、これまでに二回。一泊二日と二泊三日の旅だった。最後が夏で、その前が春。今振り返れば、あの静かな城下町が本来持っていた「最高の日常」を、最も色濃く体験できた時期だったと思う。
アクセスは鹿児島空港を経由した。そこからバス等で移動し、中福良駅や嘉例川駅からJR肥薩線へと乗り継いだ。当時はまだ肥薩線が災害で寸断されるなど想像もできなかった頃で、私はこの路線が持つ、時間の連続性に圧倒された。
特に嘉例川駅は、何よりも素晴らしかった。1903年(明治36年)に開業したというその木造駅舎は、単に古いだけでなく、100年前の空気がそのまま保存されているかのようだった。使い込まれた木のベンチ、改札の向こう側に広がる静かな風景。そこに立っているだけで、自分が今どの時代にいるのか分からなくなるような、不思議な感覚に陥る。
私は自分自身を、決して「鉄道オタク」だとは思っていない。しかし、肥薩線の魅力は知識の有無を軽々と飛び越えてくる。嘉例川のように、100年前の木造駅舎が沿線に「ごろごろ」と残っている光景は、日本中探してもここだけにしかない贅沢だ。停車するたびに地元の方々がホームで快く観光客を迎えてくれる体験や、日本三大車窓と呼ばれる矢岳越えの絶景、そして険しい山を克服するためのスイッチバックやループ線。これらが凝縮された線路を走る時間は、鉄道マニアでなくとも「特別な体験をしている」と確信させるに十分な熱量を持っていた。それだけに、今この路線が運休し、あの風景に容易に触れられなくなっていることは、一人の旅人として非常に残念に思う。
「新温泉」を素通りした、かつての私の偏見 #
人吉での滞在は、『華の荘』『あゆの里』『天守閣』という三つの宿を巡った。 あゆの里では運良く、球磨川が見える露天風呂付き客室を予約することが出来た。これが最高の体験であった。


しかし、ここで一つ大きな後悔がある。当時の私は、今ほど温泉というものに深く嵌まっていなかった。そのため、「温泉宿といえば、リゾート型で綺麗な大浴場があるのが一番だ」という、浅はかな偏見に凝り固まっていたのだ。
街を歩いていると、ふと目を引く建物があった。大正期の木造建築がそのまま残る共同浴場、『人吉温泉 新温泉』だ。番台が今も現役で、外観からは使い込まれた年季が滲み出していた。現代においては極めて貴重な、まさに「湯治」の歴史が生きている場所である。だが、当時の私は「古びた共同浴場」という外観に尻込みし、その暖簾をくぐることをしなかった。

温泉マニアとなった今なら、当時の自分に説教をしたい。バブル期に無理やり拡大し、加水・循環・消毒で個性を失ったリゾート型温泉の広すぎる大浴場よりも、あの古い壁の向こう側にある、鮮度の高い源泉と歴史の重みこそが「本物の温泉体験」なのだと。今にして思えば、豪華な設備に惑わされ、人吉の湯が持つ真の豊かさを取りこぼしていた自分が、実に滑稽で、そして勿体ない。今の視点であれば、迷わずあの番台に小銭を置き、人吉の歴史の一部であるあの湯に身を投じていたはずだ。
豪雨災害一週間前の静寂 #
二度目の訪問は、あの夏だった。 私が人吉を離れた、わずか一週間後。あの穏やかだった球磨川が氾濫し、人吉の街を濁流が飲み込んだ。ニュースで流れる映像を見て、私は我が目を疑った。宿泊したばかりの「あゆの里」のロビーが泥水に浸かり、かつて見学して蔵人の話を聞いた酒蔵もまた、大きな被害を受けたという。
一週間予定がずれていたら、自分自身が被災者となっていた。その事実に対する恐怖以上に、さっきまでそこで寛いでいた場所、挨拶を交わした人々が、一瞬にして日常を奪われたことに激しい衝撃を受けた。人吉の街並みも、肥薩線の古い駅舎たちも、それほどまでに脆い奇跡の上に成り立っていたのだと思い知らされた。
総括:いつか、あの番台の向こう側へ #
人吉は今、力強く復興への道を歩んでいる。「あゆの里」などの宿も再開し、酒蔵も再び酒を醸し始めている。しかし、肥薩線の完全復旧にはまだ時間がかかる。
あの旅で私が得たのは、100年前の駅舎が教えてくれた「歴史の重み」と、災害が突きつけた「日常の危うさ」、そして自分自身の温泉観の未熟さだった。 次に人吉を訪れる時は、もう迷うことはない。立派な旅館の浴場も良いが、まずはあの時素通りした『新温泉』へ向かおうと思う。古びた、しかし確かな本物の湯に浸かりながら、一週間という紙一重の差で繋がった自分の運命と、この街が乗り越えてきた試練に思いを馳せたい。
温泉マニアとして、そして人吉の「あの日の静寂」を知る一人として。私は再び、あの鉄路と、あの番台の先に広がる景色に会いに行くつもりだ。